1924年

新天地大阪で再起をかける

9ヶ月にわたるシャープペンシルの技術指導を終え、事業譲渡先を円満退社すると、徳次は大阪での再起をはかります。
事業に徹し、人物本位で評価する大阪の土地柄も性に合ったのです。当時まだ田園地帯が広がるだけだった現シャープ本社の建つ土地(大阪府東成郡田辺町/現・大阪市阿倍野区長池町)を借り受け、震災からちょうど1年後の1924年9月1日、徳次はそこに「早川金属工業研究所」の看板を掲げました。
ついに、再起の一歩を踏み出したのです。当面の仕事は文具部品製造が中心でしたが、仕事は順調に発展していきました。
しかし、かつての興隆には比肩すべくもなく、徳次はなるべく早く新事業の開拓をやりたいと念願していました。そんな時に出会ったのがラジオだったのです。

1924年